昨晩「ネットのダークサイド」という共通テーマを持った以下の2件の記事を読んでなにか心にひっかかるものがあったので、私自身の思うところをつらつらと述べていきたいと思います。
ネットやSNS依存症になると陥りがちなダークサイド | おまえは今までスキャンした本の冊数を覚えていのるか?
ネットが生み出すダークサイドと、リアルとネットの境界線なき時代背景*ホームページを作る人のネタ帳
人間が存在する2つのレイヤー
ネット特有の、というお話をする前に前提となる部分を書いておきます。
そもそも人間というのはどのような枠組みの中に存在しているのかということについて私がどう認識しているかということです。これには大きく分けて
- 単に生物集団の一種としてのレイヤー
- 理性を持った知的集団としてのレイヤー
という2つのレイヤーが存在します。ここで「知的」は特に「良い」とか「高等」を意味しません。生存以外の一定の知的生産活動を行う、といった程度の意味です。
生物集団としての人間に属する個人はさらに2つの生存行動をとると考えられます。
- 生物種としての秩序維持(種の保存)
- 個体としての生命維持
生物集団の一群が全体として種を維持する(単に種の「現状」を維持するといった方が適切かもしれない)ためにマイノリティを排除しようとする動きをします。全体性を維持しつつも集団内では個体間競争が行われ、他の個体より上位に位置するため他の個体を下位に追い落とそうとします(原始的競争社会)。
一方で個体間競争で勝てない場合、完全に集団に迎合する(そもそも争わない)、集団を離脱する、また集団に属しつつも他の個体と一定の距離をとった方法で最低限自身の生命を守ります。
知的集団としての人間も同様に群全体を維持しようとします。これは最低限現状を維持しつつ、個体の差異を吸収しつつさらなる社会性の発展を遂げようとします。それゆえ一般的に単純なマイノリティ排撃を善しとはしません(特に道徳論的な意味では)。全体として経済的競争における落伍を社会福祉制度というもので可能な限り保護しようとさえします…システムとしては。
よく「自然界の競争では必要のない殺戮はしない」と言われますが、これは逆を返せば「必要があれば即殺す」ことでもあります。この点で生物集団と知的集団とは大きく違うように見えます。
いわゆるネットというのはこの「知的集団の社会性」という基盤の上に成立しています。
よく色々なところで、リアルとネットは違うというような趣旨の声を聞きますが、私は全くそうは思っていなくて、むしろネットもリアルの一部であると考えています。
もしもネットそのものが、リアルと違うというのであれば、それは「匿名性による人の発言が生み出したもの」だけではないかなと思うわけです。
前記の文脈沿えば、ネタ帳さんが書かれているようにネットはリアルとは切っても切れないものであるのは明らかです。
現代の人間集団が理知的な存在だったとして、ではなぜネットにおいて
- デマゴギー
- コミュニケーション障害
- いじめ
- 炎上
- 心身の病み、喪失
- 社会からの離脱
- (それらの果としての)死
といった「ダークサイド」と呼ばれるようなものが発生するのでしょうか。
すべてが伝わるわけではないという自覚の必要性
ここではっきりしているのは生物集団としてのレイヤーは歴史の奥に置き去ってきたものではなく今なお現在まで引きずっているもの、本能として人間に残っているものだということ。そして人間は生物集団のレイヤーと知的集団としてのレイヤーに同時並列的に存在している、ということです。
ここでネットの特性というものを考えてみると
- 誰でも使うことができる
- 情報量が多く、かつ増え続ける
- 情報流速が早い
- 即時性が高い
- 機能として双方向メディアである
- 存在として単一方向メディアであるかのごとく振る舞うことがある
- コンテンツの主体はおもにテキストとイメージ、しばしば音声を含んだ動画である
スマートフォン1台さえ持てば即ネットに接続できるのが世の中です。優れた検索エンジンのおかげで情報収集は如何様にもできます。いつでも、待たずに。
即時性と双方向性を生かし、いわゆるSNSが生まれました。物理的な距離、そして家族・経済活動といった枠組みとは別の、見知らぬ人と関係を築きコミュニケーションをとることができるようになりました。
SNSの爆発的な拡散力を背景にWebの情報発信力はいよいよ大きくなり、旧来のマスメディア以上に影響力を持つようになったかのようにも見えます。またこの発信者が企業や団体のみならず個人足りうることも可能となりました。「情報」をとりまく利便性で言えばここ数年で飛躍的な発展を遂げたのは間違いないでしょう。
しかしです。テキストとイメージだけでは伝わらない情報もあります。口調の強弱であったり、目や眉の上下であったり、匂いや臭いであったり、体温であったり。ことSNSにおいてはこういった伝わらない情報により誤解やある種の軋轢を生んだりします。そのような足りない情報は今のところ受手側で想像して補うしかありません。
この補完を行うのが実際に面と向かったコミュニケーションの経験を重ねていない人間だとしたら?相手の感情をまったく察知できないか、逆に「相手はすごく怒っているのではないか」「とても嫌われているのではないか」と過剰に想像=不安を膨らませすぎて冷徹な、あるいは興奮しすぎた応答をし易いのではないでしょうか。
この時刺激されているのは理性よりも本能でしょう。個体間競争と似た状況にあっては、個を守ろうとする反応としてはごく自然な応答ともいえます。もっともこれはコミュ力の高い(と思われる)人でも突如としてそのような反応を示したりすることもありますけども。
これが現実でのにらみ合いともなるとそう簡単に相手を攻撃することは難しいですよね、なぜと言えば相手を打てばこちらも打たれて傷つくというリスクもはらんでいるわけですから。
SNSの特性としてつながりを瞬時にして断ち切る(いわゆるブロック)ことができるというところも無視できません。離脱や距離の確保というのもまた生物的な反応です。言いたいことだけ言い放ってつながりを断ち切るというが容易くできてしまいます。
時事性の高い(今現在でいえばたとえば安保法案や新国立競技場でしょうか)ものについて、それが反対であれ賛成であれ徹底的に強い反応をく示す人は皆さんの周りにも少なからずいると思います。賛成か反対か「だけ」を表明することは一見何かの意思表示のように見えて実は何も言っていないし争ってもいないのです。議論を掘り下げず結論のみの表明はある意味知的生産活動の自殺であり、生物集団内の競争回避迎合に相当するのではないでしょうか。ネットにおいては自らの属する意見だけを見、その他を無視するのは全く容易です。
かような苛烈な意見が目立つようになる(というか無意識のうちに自分で自分をそのように仕向けている)とそれがさも大多数の意見であるかのごとく錯覚します。それに追従するのは全く居心地のいいものでしょう。
フィフィ、大島美幸の出産VTR批判に「日本社会の問題だよ」 (週刊女性PRIME) – Yahoo!ニュース
これ自身ももちろん一つの例であり一つの意見でしかありませんが、客観性を失えばサイレントマジョリティの存在など想像できないというのは的確な指摘ではないかと思います。
そして「見たいものだけを見、不快なものから目をそらす」という心地よい環境が成立するとどうしてもそこに依存してしまいがちになるのはある意味では当然のことなのかもしれません。
ネットが人間の一面を誇張する
私は言いたいのはそういった「生物的反応」が悪い、ということではありません。これはどんな人にも多かれ少なかれ備わっている本能的な部分なのでどうしようもないのです。ですからむしろ積極的に人間の生物レイヤーに目を向けて誰でも「ダークサイド」に堕ちる可能性をいつも意識しておく必要があるのではないでしょうか。
そして生物レイヤー的反応はネットがあってもなくても起こることですが、先に書いた通りネットより強く人間の本能の部分を強く刺激するのではダークサイド化を加速し、またダークサイドに堕ちた人をさらに誇張して見せる力があるということも良く知っておくべきでしょう。特にSNSなどでは「即座に反応できてしまう」と言う利便性が諸刃の剣となることが多いです。
こういったことに対してヤマダさんはネットは免許制であるべき、と以前に仰ってました。法規制的なものは確かに一定の効果は間違いなくあると思います。一方で無免許運転を武勇と語る層も一定数いて、あるいは夜の家電屋の駐車場で派手にタイヤ鳴らしながらスピンターンを繰り返して公道上ではないから違法ではない、という法の抜け穴を見つける層もいるわけで、免許制も万能解でないというのもまた事実です。
それゆえ即効性では圧倒的に劣る方法ですがここまで書いた通り
- ネットもリアルの延長にある
- 今見ているのは文字と絵や写真ではなく生身の人間である
- ネットでなくても人間の本能の部分は刺激されるとダークサイドに堕ちる
- ネットはそれをより加速させる
- ネットは世界の一部でしかない
- 見たいものだけを見ることはできるが、見たくないものを見ないからと言って消すことはできない
ということ-免許制なら無免許運転の怖さだ-をそれこそ小学生のうちから教えていかなければならないと思うのです。必要なら炎上でBANした垢の実例を見せたっていいです。もはやネットに触れずに生きていくのは現実的には難しいので。
こういうことをあえて口に出し、自分の周りの人間と意識付けし合うようにしないと、ダークサイドの呪縛からはなかなか抜け出ないのではないでしょうか。
下記ははおまスキャの記事の一部です。
引きこもって人と会わずにほぼネットだけで生活することは、収入源によっては理論上は可能。
ですがそんな生活をしていると、気持ちが上がっていかない。理屈で説明はできないのですが、経験上どうしてもそうなってしまうのです。
過剰に自省的になったり、あるいは攻撃的になったりして生産性が低下、そうするとさらに自信がなくなりデフレスパイラルに陥ってしまいます。
「理屈で説明はできないのですが~」の説明の一部としてこれまで書いたことはいくらか当てはまるのではないかと思います。
「外に出て実際に社会に触れる・人に合う」ことって大事なんです。人と直接関わることでしかコミュニケーションの経験は積めないし、その下敷がなければ相手の気持ちを推し量り想像することなどできないのですから。対人恐怖症でややコミュ障気味の私が言うのもなんですけれど!
まとめ
などと言いながら1週間後にコロっと意見が変わってるかもしれません。というか議論によって変わる余地は常に残しておくべきです。それがダークサイドに容易に堕ちない方法だとも思ってます。
それでですね、お子さんを持つ方ならこういったことをぜひとも家庭でお話していただきたい。親の立場この立場でどう考えているかお互いに述べてみましょう。
そして必要性からどうしても使わざるを得ない場面もあるというものの親自身がSNS依存にならないよう気を付けましょう。子どもは親の背中を見て育ちますからね。
んじゃまた。
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