スキーが滑れない人間は滑り方の前に起き上がり方を学ばねばならない

スポーツ

スポーツにおいて良いプレイヤーが良い指導者になるとは限らない。今期のDeNAとジャイアンツをみてそう思った人も多いでしょう。

負け試合でソロホームランを打つ原と一点もぎ取りにとにかくバットにあて全力で走る中畑、どっちがより優れたプレイヤーであったかは見方によって変わると思いますが、いずれも巨人のジャイアンツの黄金時代を支えた往年の名選手だったんですけどね。

甥っ子をスキーに連れて行った

先日姉の子が全然スキー滑ったことない(昨シーズン初めてゲレンデに行ったが1回きり)ってのでスキー場に連れてって滑り方を教えてきました。

「滑り方を教えた」といってもスキー履いたら斜面で立ってもいられないような子にいきなり滑走方法や体重移動なんか教えても無意味です。私が最初に教えたのはコレ。

転んだときの立ち上がり方です。この動画の転び方は比較的「きれいな」転び方で、スキー滑れない子はもっと無茶苦茶な転び方をします。足もスキー板も交差したり、つま先が左右まったく逆を向いたりしてね。

起き上がり方の基本は動画にある通り

  • 上半身はべったり地面につける
  • 一番上になってる足・板を持ち上げて宙に浮かす
  • スキー板(つま先の向き)を揃える
  • 足が斜面の一番低いほうになるよう回転する
  • ひざを曲げる
  • 上半身起こす
  • 立つ

言葉にすると繁雑ですができる人は無意識にやるし別に難しくもなんともない当たり前のことです。

しかしスキーが滑れないと言う人はほぼ間違いなく転んだら自力で立ち上がれないですから、最初に立ち上がる練習をしなければならないのです。

それが出来てたら次は怪我のしない転び方、そのあとやっと初めて滑走し、転んだら立ち上がり、滑り…を繰り返してやっと滑れるようになるのです。

スキーが上達しない子の9割は転んで立ち上がるところで自由が利かず、嫌気がさしてスキーが嫌いになってます。だから滑走の練習にも積極的になれない。

ところがしばしば「転ばない子」(比較的筋力があり力で強引に板をコントロールする)がいて「この子上手いね、もしかして才能あるんじゃね?」などと勘違いされることもあったりなかったり。

そういう子に限ってまだ上手にターンも出来ないのに無理にスピード出してとんでもない転び方して骨折ったり大怪我するんですけども。

ちなみに甥っ子は4本(2時間)ほど練習して無事ボーゲンでスピード殺してターンできるようになりました。嫌がらなきゃそれくらいすぐに出来るようになるもんですよ。

転び方と起き上がり方は誰が教えてくれるのか

学校教育では激しく勘違いされて「転ばない子」がもてはやされます。先生的に。逆に転んで嫌気さしてる子は嫌われます。「この子はやる気がない」と。

現代の教育はね、皆さんも肌で感じてわかってると思いますけど「滑り方」しか教えないんですよね。起き上がり方を教えないし、大怪我しない転び方も教えない。「教」はあるけど「育」がない。

そして困ったことに「転ばない子」がマジョリティとはいえないもののそれなりに数がいたりします。周りの大人が勘違いしてるので自分も「滑れる子」だと思い込んでたりします。

一方嫌気さしてる子の親もせめて我が子には「起き上がり方」くらい教えてやれば良いのに、なんだったら「転ばない子」と比較してだめなところばかりあげつらったりね。

こういう子たちがそのまま社会にでるとどうなるか。歳を経て初めて盛大に転んで大怪我する子と、そもそも滑ろうとしない子の両極端ばかりになってしまいます。しかも人生の歩み方が全然違うのに「起き上がれない」と言うことだけは共通してます。

今は誰も転び方も起き上がり方も教えてくれないんですよ。

社会の求める立派な人材像

世の中には「転び方・立ち上がり方」を知らないとまともに仕事では使い物にならない人材だし本人も辛かろう、ということを理解している人は少なからずいます。

しかし就活戦線を通じて求められるのは「即戦力」とか「自己責任」とかそういうことで。人の「成長力」ってのは二の次なんですよね不思議なことに。

企業と言うものの至上命題は利益を上げることですから、低コストな労働力に出来るだけ多くの仕事量を割り振りたいってのは当然でしょう。

社内での教育訓練にも時間も金もかけたくないのでとりあえず「転ばない子」を採用する。転んで大怪我したらサヨウナラ、あたらしい別の「転ばない子」を見つけてくるっていう、ね。

順調に見えた人生もここで一変、耐性がないから「転ばない子」が「嫌気さしてる子」になっちゃうんですよね。全然違う人種に見えても結局根底では繋がってるんです。一緒なんですよ。

失敗しようぜ失敗

もうだいたい私のいいたいことはわかると思いますが、こういうこと続けてると「転んだところから何かを学ぶ人間」「そこから先を進める人間」というのは社会からドンドン減っていってしまいますよ、ってこと。

労働付加価値が単に労働単価しか意味を持たなくなったとき、行きつく先は縮小再生産を繰り返す単なる奴隷労働社会です。

労働単価ゼロ円ってのは極端な例ですが、たとえばユニクロなんか見ててはっきりわかりますけど低賃金社会を求めて海外に行ったところ行った先の社会の経済が上向きになれば低コスト労働者をいつまでも確保なんて出来ないしそれを強い続ければいつかは離反にあいます。自分達で経済を動かせるようになったらだれも外資になんか頼りません。

そこでまた別の経済未成長社会に生産拠点を移して…ってそんな繰り返しがいつまで続くものなのか。

何より労働単価に着目してそこの「国際競争力」考えてどうするの。デフレまっしぐらよ。

そんなことよりサービスや製品に新しい価値をつけることこそやらなきゃいけないのに、肝心の「成長する人」「試行を繰り返すことに躊躇しない人」が国内に残ってないんじゃそれこそ国際競争になんか勝てないと思うんですが。

もっともこういったことの原因は目先の利益最優先の企業活動だけでなく失敗を許容しない社会全体の風潮ってのもありますね。なんなんでしょうね「風潮」って。気持ち悪い。

良くも悪くも安定した経済の中では社会の落伍者が復帰するのはとても難しい。失敗を許容しないのは周りの「安定」とものすごく比較しやすいからなんでしょうか。安定=成功や進歩、ではないのに。

回顧主義は大嫌いですが昭和の敗戦後~経済成長の時代には成功者も安定も極めて少なかった。誰もそんなものと自分や身の回りの人間を比較しようなんて思わなかった。

個々のチャレンジがなければ社会全体が回復することもなく、ゆえに失敗それ自体の反省を求めることはあっても、その過程で失敗した者を叩くなんてのはナンセンスだとちゃんと分かっていたのでしょう。

だから今「失敗の仕方を知らない人間」を責めてもしょうがない、そういう風に育ってきてないんだから。そういう人間は失敗の仕方から教えてやんなきゃならないんです、時間と金はかかっても。

そしてなにより同じようなことを繰り返さないように子どもたちには転び方も起き上がり方も教えなきゃならないのはもちろんのこと、転ぶヤツはチャレンジするヤツだ、起き上がったら手に何か握ってる、転ぶ人間を蔑んだりするのは大間違いでそういうヤツこそ大事にしようぜってものすごく当たり前のことを強く知らせてやんなきゃならんと思うのです。

凄くつまんないことで叩き合いをはじめたり、穴に落ちたヤツを上から眺めてニヤニヤ笑う我々のような頭悪い大人にならないようにね。

まとめ

たかがスキーくらいから社会の有り様とか教育のことを考えるなんてのは、一握りの砂から宇宙を連想するくらい馬鹿げた発想ですがたまにはこういうのも良いでしょう。

ここまで書いといてなんですが、正直今の教育なんてものには私自身もそれほど期待してないです。とはいえ我が子くらいには通りの通ったものの考え方はちゃんと話してやんなきゃならんな、と思う今日この頃です。

んじゃまた。

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