2015年の父と私

父の日が近いので今日は父のことを書きます。

今日は、と言いましたがこの記事はもう実はもう数か月前から書いてました。書いてましたが途中で何でこんなこと書いてるんだろう?何のために書いてるんだろう?こんなことを書いても意味がないのでは、としばらく筆が止まったままでした。

しかししばらく前にとあるブログの記事を読んで、やはり心の整理のために最後まで書くことにしました。他の誰のためでもなく、自分のために。

なお、人の(かなり具体的な)死を扱う内容なので予めご了承ください。そういうものに免疫のない方は読まれない方が賢明と思われます。

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2015/1/3

報恩講という名目の新年会。一家集まりいつもの1月3日と同じように住職と一緒に飲んで喰ってどうでもいいバカ話をした。

2015冬

父、玄関前雪掻きをしていて、3,4掻きしては息が切れ座り込んで休んでた…というのは後になって近所のおばさんに聞いた話。最初観たときはしゃがんでタバコでも吸ってるのかと思ったけどどうも様子が違った、と言っていた。もちろんこの時点でこの話は家族の誰も知らない。

2015雪解け前

父、車庫の前で転んで左上腕を結構ひどく擦りむき結構な出血をしたが母には言わず。着替えが血で汚れていたので母が気付いたらしいが「こんなもんなんでもない、ほおっておいたら治る」といって病院にも行かず。

5/初~中旬

足のむくみがひどく、雪解け前に転んでできた傷が全く治ってない。病院に行くように言っても何でもないの一点張りなのでなんとか説得を、と母、そして実家で同居の姉から相談を受ける。

聞けば4月の親戚の法事の時にも足がむくみ始め痛み、車の運転ができないのはもちろん、歩くのもしんどいので、近くに住むもう一人の姉に送迎を頼んでいたらしい。

5/30

父の育った増毛町に「海老祭り見に行こう」という名目で連れて行く。車を降りてしばらく歩いたが15分もしないうちに息が切れ歩けなくなる。

母とうちの娘が一緒だったので私はそちらと一緒にもうちょっと歩き、その間妻が昔通ってた増毛の小学校とかに車で連れて行ってくれた。

帰りがけ私からそんな調子じゃまたここに来れんからとりあえず一回病院行けといったら「うーん」と同意ともそうでないとも取れない返事。だがいつもの強硬な断りではなかったのでさすがにちょっと効いたかと。

6/3

父、入院。検査入院ということだったが、全く栄養状態が悪いということでそのまま入院加療に。

さしあたって緊急的な外科的治療は不要、まずは食事療法で栄養状態の改善。

6/11

検査結果を聞くため病院に呼ばれる。腎不全(ネフローゼ)と診断。腹水・胸水も溜まっている。尿蛋白が多く尿量も少ない。食事療法と投薬で蛋白吸収量を増加することを目標に。

蛋白質が体に固定できないということはつまり体を維持できないということ。筋肉も内臓も衰えるし、摂取した水分も細胞間に溜まってしまうらしい。

6/下旬

若干尿蛋白が改善し尿量も気持ち増える。気分転換も必要なので1泊程度なら外泊しても良い、とのこと。ただし肝臓もちょっと硬くなってるのでアルコールは厳禁と釘を刺された。酒の好きな父には辛かろう。

あと、病院に月一で回ってくる床屋で散髪したらしく自慢のポーニーテールが無くなって短髪に。父は隠居してから髪を伸ばしていたのだが、短くなった髪を見て現役自衛官だったころをちょっと思い出した。

6/30~7/1

一時帰宅。地元の神社祭。いつも一家がそろうのは恒例行事。当然父には呑ませないが、横で私が呑むのも悪いので私もアルコールはナシで。

7/26~7/27

一時帰宅。上とは別の、地元の商工会のお祭り。これもみんな集まって飯を食う恒例行事だった。結構な数の行灯と太鼓が練り歩く、割と派手な祭りだけど残念ながら今は見に行けない。音だけは聞こえる。

帰宅前に先生に話を聞いたが、ここまで大きく改善はなく入院したての頃より多少マシ~現状維持程度の状態とのこと。水の溜まり具合から長年かけてこうなったので一気によくはならないから時間かけてちょっとずつ改善しましょうとの説明。

味が薄くてまずいと言って病院での食事量も増えてないらしい。アイスクリーム(許可済み)は喜んで食べていたので、見舞いのたびに買っていた。

このころ病院では歩けるのは病室前のトイレくらいまで。電動リクライニングを使いつつもベッドの上から起き上がって向きを変え座る程度はできていた。

これまでに一度腹水胸水を外部からちょっとだけ抜いてみたらしく、膨満感が引いた分多少楽そうではあった。

次の帰宅に向けて自宅にも電動ベッドを姉たちと一緒に購入。

8/16~8/17

盆の一時帰宅。このころはほぼ自力で歩行できなくなっていた。玄関のたった2段の階段、そして上り框すら足を上げられず、車から降りた後、助けをかりながら休み休み家にあがるまで数分かかった。座るのも背もたれなしでは姿勢を維持できない。

このとき私は所用があって一緒に飯を食えなかった。病院食は全然食べないが、昔から買ってる精肉店のジンギスカンは量は少ないけど喜んで食べたそうだ。

明けて翌日の夕方病院に戻る前に顔を出したら、車庫の上に仕舞ってあるスキーのストックを出しといてくれと頼まれた。歩く訓練をしたいらしい。自分からそういうことを言うと思っていなかったので意欲があっていいことだと感じた。病院へは私が送っていった。

8/20

病院から少量の吐血があったと連絡があり急いで病院に。病室行ったら本人は何事もなかったかのようにベッドから起き上がり腰掛けて氷水飲んでた。

何事もなかったかのように、と言ったがマグボトルを持つ手は震えてほとんど力が入っていないようにも見えた。

8/21

病状説明を聞きに病院へ。

緊急を要するほどではないけど念のため詰所前の半個室に移動。本人もこちらの方が落ち着くというのでしばらくここにいることに。

大部屋では同室奥のご老人(やや痴呆であったようだ)の大きな声の独り言に悩まされていたようだ。

尿量と尿蛋白量はまた悪化し始めた。腹水胸水もまた増えている。投薬量は限界量でこれ以上の治療ができないので「転院してもいい」とのこと。「してもいい」というのはどういうことだろう。特にどこそこの病院を薦められもしない。

姉が知人のつてで腎臓専門医と治療施設のある総合病院を調べてもらうことに。それで週明けにでも転院のために紹介状を書いてもらおうかという話に。

8/23早朝

前日の晩ひどく吐血があり、意識を失って血圧がさがったということで皆で病院に。夜の間にカメラ検査した結果、食道からの出血とのこと。腫瘍ではないが潰瘍のようになり粘膜の薄いところから出血。ストレスが原因ではないかといっていたが正直そんなことはどうでも良かった。

胃に血がたまるため鼻から管を挿入し内容物を抜き、酸素マスクを着けていた。尿カテーテルにバイタルのクリップ。父はすっかり線と管だらけの「病人」になっていた。

先生から「極めて近い将来」の話をされた。もちろん長くは持たないという意味だ。

しばらく様子を見てたら意識が戻った。みんな揃って病室にいたのに驚いたのか一声目が「死ぬんか?死ぬんか?」だった。私は「そんなこと言えるくらいならまだまだ大丈夫だな。はやく直せよ」と言うのが精いっぱいだった。その後はうつらうつらとして意識があったりなかったり。会話しつつも噛み合わなかったりで夢と現実が交錯していたのかもしれない。

意識が戻った時に「今何時よ?」と何度か聞いたが入れ歯を入れてないのでうまくしゃべれない。そこでなぜか「ホワッタイム?」と言い方を変えた。これは姉が一発で聞き取り時間を教えてやった。酔うとテキト-な英語をしゃべりだす父だったので何となくその光景にちょっとホッとした。父は「お前らいてもしょうがないからもう帰れ」と言っていた。容態もだいぶ安定したのでその日は夕方前に解散した。

8/24

仕事後18時半くらいから面会終わりの20時まで父の顔を見に。この間も意識があったりなかったりだったはずだが私がいる間は何故かあまり意識が飛ばなかった。しきりに時間を気にしてたので姉が昼間壁掛け時計を持ってきて高いところにかけておいたが、父は私に「見えないから持って帰れ」と言った。自力で頭が動かせなかった。これから一週間、父の見ている世界は病院の天井か、夢だけだった。

それでもまたしきりに時間を気にして聞くので教えてやったら「(私の妻が)待ってるからもう帰れ…」と何度も言った。本人も誰かを相手に意識を保つのがしんどいのもあるんだろう。この日はいろいろ話をしたと思うが何を話したのかさっぱり覚えていない。次からはあまり長居はしないことにした。

8/26

残業があるので毎日とはいかないが、出来るだけ病院へ足を運びたい。帯状疱疹が出るようになった。寝返りも打てないのでものの数日で褥瘡も。私が行ったときは足が攣った(実際に攣っていたのかどうかは定かではない)とひどく痛そうに顔をしかめ唸っていた。

何かできることはないかと父に聞いたらその足をさすってくれと言われ、逆に褥瘡や疱疹に触って痛くならない程度にさすった。父の体は液止めのパッドであらゆるところを覆われていた。顔と頭が痒いというから頭も掻いた。溜まった腹水と胸水が苦しいらしい、うーうーと苦しそうに唸ったが私にできるのは「大丈夫、大丈夫だよ」と言いながら母親が赤ん坊にするようにお腹をさすりながらトントンと叩き、手を握るくらいの事だけだった。

経口摂取はもう何日もしていない。喉が渇くというので詰め所に行ったら氷をほんの小さな一かけらだけ口に入れてくれた。それでも足りないから、と言ったら「一度にたくさんはあげられないんですよ」と断られた。

丁度そのころ甥が免許を取ったのでその話を父にした。今度は「甥の運転で増毛へ行こう、オレ運転しないで楽できるし今度はのんびりだな」と言ったら「そうだな」とだけ父は答えた。

8/27、8/29

父を見舞うも容体は変わらず。胃から抜く血の塊の量は減ったように見えた。このまま回復できるんじゃないかという淡い期待も。乾燥するので酸素マスクには加湿タンクが追加されていた。先日意識を失った後からは痰も切れないので時々ナースさんに吸引してもらっていたが管を喉に突っ込まれるので

恐ろしく苦しそうだった。体は動かせないが咽頭反射のような感覚だけはしっかり残っている。頭で考えることもしっかりしている。

時々ナースさんが体位を変えに来るがその時は部屋から出された。家族でももはや見るべき姿でないということなのだろうか。部屋の外で待っているその間も父の唸る声は聞こえる。

「こんな中途半端なことになって…」と父が洩らした。元気か死ぬかどちらかだ、と言う意味だ。「中途半端だと思うならはやく直せ、出血も減ったからもうちょっと辛抱だ」という私の言葉を父はどう思っただろうか。はっきり覚えていないがきちんと会話をやり取りで来たのはこれが最後だったかもしれない。

この頃、父を見舞った帰りに実家に寄っていた。私はもう一つやることがあった。葬儀に向けた準備だ。父が亡くなれば母が喪主ということになるが、葬儀を執り行う気力などあろうはずもない。つまり施主となるであろう私が何とかしなければならない。祖母の香典帳を開き、それとここ数年の父宛の年賀状を出してきてどこの誰に連絡をすればいいか調べていた。焼香順、そしてお金のことも。

父を見舞って大丈夫だと応援し、そのあとに葬式の段取りを考えていた。ひどい息子だと自分でも思った。辛かった。とにかく辛かった。

8/30 22:30

日曜の夜で明ければ仕事だからそろそろ今日はもう寝ようかと言うときに、姉からの連絡は来た。病院から電話があり急激に血圧と心拍が下がって呼吸も弱くなったという。言ったの皆が病院についたのは23時半頃だったと思う。

ドラマでよく見る、心拍や血中酸素を表示するモニターが枕元に置いてあった。父は身じろぎもしなかった。ただ浅く早い呼吸をしているだけだった。

目はほとんど閉じているがほんの少しだけ薄眼をあいているようにも見えた。瞬きはしていない。この時の父には意識があったのだろうか。私たちがいることに気づいただろうか。それは今でもわからない。睫毛には水滴がついていた。泣いていたのかもしれないし、ただマスクの隙間から漏れた水蒸気がたまっていただけかもしれない。それも今となってはわからない。

そのまま皆一晩父と過ごした。弱いながらも心拍は上がったり下がったりを繰り返していた。母は返事をしない父にお父さん、お父さん、と静かに、何度も呼びかけていた。

早朝3時を過ぎたころだと思う、看護師さんが少し休んでください、とストレッチャーを出してくれた。母は大丈夫だと言ったが、母さんまで一緒に倒れたら困るからと無理に横になってもらった。父の様子は変わらない。

月曜で子供たちを学校に送り出さなくてはならないので、5時頃妻と姉たちには一旦帰ってもらった。
この日はほんの少しだけ薄曇りだったが朝日は一際強く差していた様に感じた。7時になる10分ほど前、急激に心拍も血圧も落ちた。

看護師さんが、帰られたご家族呼ぶなら急いでください、と言った。姉に電話をしようとあわてて病室を出ようとした瞬間、父は突然小刻みに体を奮わせながらハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ…と激しい呼吸をした。苦しそうだった。私が目にした中で最も苦しそうな人の姿だった。ものすごく長く感じたがおそらく、せいぜい1,2分の出来事だったんだろう。そして静かになった。

8カ月31日6時59分、父と私の、家族の共有する時間は終わった。81歳まであと50日だった。

最期を看取ったのは私と母だけだ。姉たちは間に合わなかった。それで良かったと思う。父の最後の苦しむ姿は姉たちには耐えられなかっただろう。ふたたびみんな病院に揃った後、父は看護師さんに着替えさせてもらい、義兄が連絡をしておいてくれた葬儀屋さんの車で父を実家に連れ帰った。

お寺へ連絡し住職に枕経を勤めてもらった。「そうか、晃(あきら)さん逝ったか」と住職。父の名はあきら、日の光で晃。病院の窓から見た朝日が輝いていたこと、単なる偶然だがきっと忘れることはないんだろう。

その後のことはあまりはっきり覚えていないけど、親戚に連絡をとったり葬儀屋さんや町内会長さんと打ち合わせをしたり、役場にあれこれ手続きに行ったり、ご近所さんに弔問いただいたり、葬儀での挨拶を考えたり、とにかくあわただしくしていた。夜には少し落ち着いて、ようやく父の顔をゆっくり眺めた。もはや父はどこにもいないのに父の顔を眺める、というのはいままで感じたことのない感覚だった。哀しみは不思議と感じなかった。

9/2,3

二晩を実家で過ごし、通夜そして葬儀を執り行った。この間もとにかく日中は忙しくバタバタしてて、よく覚えていない。施主はあまりにやるべきことが多い。

葬儀が終わり、出棺の前に弔問客へ最後の挨拶をした。挨拶の途中、急に涙があふれた。忙しさで麻痺していた感覚が、これが本当に最後だと思うと急に戻ってきたのではないかと思う。挨拶は最後まで述べた。しかし焼き場へ送る車に乗っても涙が止まらなかった。

なぜ父は亡くなったのか。無理矢理でももっと早く病院へ連れて行けば今頃はまだ元気だったんじゃないだろうか。

腎臓が悪いとわかった時点ですぐに専門科のある病院へ転院すべきだったんじゃないだろうか。

仮に治らなかったとしてももっと父を見舞うことはできたんじゃないだろうか。

もっと話ができたんじゃないだろうか。もっと話がしたかった。

私が大学へ行ったせいで経済的にはだいぶ我慢をさせたんじゃないだろうか。

父が苦労した分の親孝行など何一つできなかったのではないか。

父の行ったことのない遠くへ旅行に連れて行きたかった。父と一緒にまた増毛へ行きたかった。

そんな支離滅裂なことが、しばらく頭の中をぐるぐるぐるぐる回り続けた。

親しい人を亡くすのは後悔しかない、としばしば耳にする。私の場合ちょっと違ったと思う。後悔というよりあれは無力感だったのだろう。

焼き場につく頃には多少落ち着いていた。火葬の終わるまでの間、人と話すことで多少気が紛れた。

窯から出てきた父のお骨は立派そのものだった。病気で亡くなった人は骨も焼きくずれることが多い。祖父や祖母の時もそうだった。父のお骨は人の形そのものだった。堂々としているようにも見えた。きっと病気が治ればまだまだ元気でいられただろう。

お骨は突き棒でついても砕けないほどだった。火葬場の係の方に施主さんもっと強く突いて崩してくださいと言われたがさすがにそれは躊躇われたので係の方にお願いした。

最後に残った喉仏は、座椅子で寝そべってテレビを見ている父の姿そっくりだった。本当にそっくりだった。これだけは絶対崩れないように、と静かに骨壺の一番上に置くのが精いっぱいだった。

9月

遺された母の社会保険関係の手続きとか遺族年金の手続きとか。年金の手続きってなんであんなに手間がかかるんだろう。

官民両方で勤めていたので手続きも倍だ。書類集めて送って、また送られてきたのにあれこれ書いて送り返して…と。社会保険事務所にも2回くらい行ったろうか。年金額が確定したのは歳も暮れようとする12月になってからだった。

とはいえ、父がまじめに働いてくれていたおかげで、母が差し当たって生活していく程度の年金は頂戴できることになった。今更だが父さんありがとう。

その後は遺品整理とか。家以外は財産らしい財産は何も残さなかったけど、車庫を整理していたら古い釣竿がたくさん出てきた。部隊に努めていたころは仲間と一緒に良く海釣りに行っていたなぁ。本人は「釣り」じゃなくて「沿岸警備だ」と言っていたけども。

竿を清掃したら使えそうな磯竿が何本かあったのでそれは私が頂いた。渓流釣りの竿も何本か使えそうなのがあったのでこれは義父に貰ってもらった。

私も子供のころ何度か連れて行ってもらった記憶がある。旅行などまず連れて行かない父が誘ってくれたからものすごくワクワクして行った。楽しかった。今更だが父さんありがとう。

父の使っていた棚の奥からは冬季レンジャーの修了バッジが出てきた。レンジャー訓練は受けたが冬季レンジャーまではやってない…と本人から聞いていたはずなのだが。あれは「訓練は修了したけど指導教官にまではなっていない」という意味だったんだろうか。昇進試験は面倒くさがって全然受けなかったくせに、そういう過酷なところでムキになって頑張る父さん。今更だがかっこいい。かっこよかったよ。

そんな父に何もしてやれなかった。父さんごめん。本当にごめん。

10/18

四十九日。翌19日は父の誕生日でもある。酒飲みだが甘いものも食べる父に、姪たちがチーズケーキを焼いて供えた。法要だが誕生パーティでもあった。この頃には母も幾分か元気になっていたと思う。

飯を食いながら下の姉がぽつりと「最後まで酒も止めずタバコも止めず、好きなことやって、長く苦しまずに逝ったから、父さんはそれでよかったと思ってるんじゃないかな」と言った。もっともだ、と思った。

父が生前ふざけて「おれは即身仏になるんだ」と言っていたのを思い出した。「おれが死ぬときはコロッと逝くんだ」とも。老老介護で長い間親3人面倒見てきた父は年老いた親の介面倒を見る大変さを知っていた。だから身動きできぬ病床で「こんな中途半端なことになって…」と言ったのだ。

3か月たらずだが、家族に看病らしきことをさせてくれた。最後の数分は本当に苦しそうだったがその数日前まではしっかりしてたし長患いせず逝った。とても父らしいじゃないか。

あのときの無力感が消えることは多分ないんだろうが、父なりの逝き方を考えたとき、私自身の人生も自分の人生を再開できる気が少しだけした。母はまだまだ元気だ。妻も娘もいる。一緒に生きている家族がいる。ここで立ち止まっている場合じゃないんだとやっと思えた。

10月末

貰った竿で増毛にアキアジ釣りに行った。残念ながら心得の無い私には釣れなかったが、次の年こそ必ずここで釣り上げようと思ってる。父の竿で、父が幼いころ過ごした町で釣ったアキアジのイクラを醤油漬けにして母にご馳走するんだ。

2016/1/3

報恩講という名目の新年会。一家集まりいつもの1月3日と同じように住職と一緒に飲んで喰ってどうでもいいバカ話をした。

父がいないということ以外はいつも通りだ。母、二人とその姉家族、私の家族。

住職は「いつもいる人がいないと変な感じがするねぇ。コップ一個頂戴」といって酒を注いでいつも父の座っていた席に置いた。

この日は父がいないのに住職と義兄と私で危うく一升瓶1本あっという間にあけるところだった。危ない危ない。皆で吞める酒は美味い。本当に美味い。

~今

父は特段重篤な症状に長く悩まされたわけではありません。事故の外傷で大変な苦痛を味わったわけでもありません。それでもやはり最期の最期は苦しそうでした。できれば最後は安らかに眠るように送ってあげられたら、と今でもちょっと思います。しかしそれはもう終わったことです。

母は元気です。数年前癌で片肺を切ってから、リハビリのためにやっていた歩くスキーに、この冬も何度か行っていました。送迎はしません。自分でスキーかついで歩いて練習コースまで行くのです。3月に75になりました。

母の手術の時、父は金属類を身に付けられない母の外した結婚指輪を握りしめて「まだ終わらないのか、まだ終わらないのか」とせわしなく待合室をうろうろしていたのを思い出します。転移もないし小さいし、体力もあるから切ればそれでほぼ問題なし、と聞かされていても父はとても心配だったのでしょう。素面の時は愛想も悪いし優しい言葉も決して言わない父だったので、私はその姿に多少驚き、一方でなにか安心感のようなものも覚えました。

上の姉は建設関係の会社をやっている家に嫁いだので、会社の手伝いもしながら忙しくしています。義兄は何かと言っていつも実家に顔を出してくれ、私以上に父の酒に付き合ってくれました。甥は春に(義兄と同じ)短大へ進学しました。今ではピンク色の頭になっているらしいです。そのうち父親の仕事を継ぐのかもしれません。私にはわかりません。

下の姉一家は5年前宮城の利府にいて震災で被災しましたが、皆無事でこちらに戻ってくることが出来ました。姪のひとりはこの春に(姉と同じ)短大へ進学しました。何年も使っていなかった実家のピアノを調律し、生まれて一度も習ったことのないピアノの練習を頑張っています。そのピアノは父が姉たちのために昔買ったものです。

私の家族も元気で生きてます。学校を出してもらったおかげで、仕事にあぶれず世間並みのお給金をいただいて、今のところなんとか喰うに困ることはない(予定)です。父は家以外の財産を何も残さなかった、と言いましたが、自力で喰っていくだけの力と、家族の縁だけはちゃんと残してくれました。

人が亡くなることを「不幸」ということがあります。確かに肉親や親しい友を亡くすというのは大変な喪失感や後悔、無力感を感じるものです。父の死を通して私は、40を過ぎてようやく実感としてそれがわかりました。

父はそれなりの年齢でしたが、こと、若い方が亡くなられたときはその哀しみも一入でしょう。しかし人は生きている以上、原因やそこに至る過程はどうあれいつかは必ず死を迎えるときが来ます。死を不幸と考えるのは、生きていること、生きてきたことそのものを不幸と考えるようなものではないかと思います。

私は唯物論者です。人が亡くなってもどこにも行かないと思ってます。天国にも、地獄にも、浄土にも、クルアーンの楽園にも、ヴァルハラにも、来世にも。息を引き取ったところでおしまいです。異論はあろうかと思いますが、生きている間だけがすべてと考えています。

通夜のあとの説法で住職は「この姿はいつか迎える私たち一人一人の姿である。そのことを、晃さんは身を持って教えてくれていんじゃないでしょうか」とおっしゃった。長く父の友人でいてくれた住職がこれを言ってくれて本当に良かったと思います。

亡くなった人に、あるいは亡くなった人が残した何かに報いたい、そう思ったならば、人と比べない、特別でも立派でもない自分自身の人生を生ききる、それだけが唯一できることではないでしょうか。

そろそろ実家の庭のさくらんぼも生りはじめるころだと思います。昨年父に言われてかなり枝を払った(父に頼まれた最後の仕事だ)ので数は減るでしょうが、その分甘い実をつけるのではと期待しています。母の顔も見がてら、週末に娘を実家に連れて行きましょうか。

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